5時から作家塾
第3章 何はなくとも今のあなたが
――深刻な不景気編 '96〜


9.霧の中から敗者復活

 1990年代になると、1980年代の芝通では当たり前だったこともそうではなくなっている。第二章でお話した『終身雇用制』がそのひとつである。そのほかに、ひとつあげるとするならば、『年功序列』ではないだろうか。
 1995年秋、芝通の方向転換を予感させる記事が新聞に載った。
『芝通は若手抜擢など柔軟な人材登用をめざし、96年4月から部課長制を廃止する。現在、部課長の肩書きを持つ中間管理職を「参事」に統一し、年齢に関係なく、役職層から管理能力に優れた実力者だけを「マネージャー」に起用する。年功にとらわれない能力主義の人事を容易にし、組織の活性化をめざす……』
 それまでの芝通では、どんなに秀でた能力を持っていても、一足飛びに昇進することはなかった。四年制大学新卒の場合、部長になるには二十年以上の歳月を要した。
「芝通も能力主義に変っていくんだな……」
 倉岡智也は朝食のテーブルで新聞を眺めながらトーストをかじる。山口生まれの山口育ち。大学も地元の自宅通学。芝通へは87年に入社した。
 エンジニアにしては、結婚は早いほうで、入社二年めで結婚。と、同時に子どもができた。普段の倉岡は結婚指輪をしているが、一人で飲みに行くときは外すことにしている。
 入社以来、芝通の多摩工場でコピーマシーンの設計を担当していた。当時の組織はピラミッド型。倉岡は入社三年めで、新人が一人、部下としてついた。彼を成長させるのも倉岡の仕事である。任せるところは任せる、それが倉岡の信条だ。ただし、部下にとって難易度の高すぎる仕事は、自信を無くさせるだけ。能力のやや上レベルの仕事を任せるのがポイント。最初に仕事の目的を説明し、実現するには何が必要かを考えさせる。仕事を任せた後は、進捗の把握や質疑応答はするが、仕事のやり方には口を挟まない、……そんな感じで、挫折もなく順調なサラリーマン生活を送っていた。
 ところが1993年、コピーマシーンの事業移管が決まり、子会社に出向することになった。
 出向してから、妻の祥子の視線が変った。見下すような態度を示すのだ。食事の支度にも手を抜き、コンビニ弁当だけだったこともある。が、本当の原因は別にある。出向直前、大阪へ出張したときに一晩一緒に過ごした女から来たメールを、祥子が見てしまったのだ。
「ホテルの部屋に戻ると女がいたんだ。俺からは誘ってないんだよ。相手の女が勝手に……。オレも困って仕方なく……」
<んなわけ、ねーだろッ>
 そのとおり。独りで突っ込みを入れた倉岡は、別の理由を口にするが支離滅裂。言い訳は事態を悪くした。
 元はといえば相手の女に独身だと嘘をついたのがよくなかったわけで……。昔から嘘の使い方と言い訳は下手なのだ。

 1998年。職場も、仕事も、祥子の態度も、何ひとつ変化なく新しい一年は前の年と同じように流れていく。
 20:36、中央線快速電車上りが西八王子駅に到着し、倉岡は降りバスロータリーの列に加わる。自宅は出向が決まる一年前、親の出資をちょっとだけ頼りにして買った一戸建て庭付き。狭いが家族三人なら充分の広さである。バス停から家の前までは徒歩三分。前の日となんら変わるものはなかった――家の前に辿り着くまでは。
 いつもは点いているはずのリビングの灯りが消えている。祥子が床につくにはまだ早すぎる。
『家出』、『離婚』、『親権』、『養育費』、『調停』……。倉岡は嫌な予感を抱えたまま玄関のドアを開け、リビングの灯りを点けた。
 テーブルの上にあるメモ書きを見つけ走り寄る。『大塚総合病院』とだけ記されていた。地元で一番大きい病院である。
<なにかが起こった>
 倉岡は通りに走り出てタクシーを拾った。

             *

 そのころ、山田祐子はフロアーで荷物を整理していた。一月から電話機設計部に異動することが決まったからである。ずっと前に一度だけ使った書類が引出しから出てくる。引出しのスペースが狭いと不満に思っていたが、要らないものもあるものだ。
 電話機設計部には同期の永原も吉野もいるので、仕事のしやすい職場ではある。しかし――。
「山田さんが移る電話事業って、ずっと赤字ですよね」
 隣りの席にいる後輩の川田が訊く。
「……そーゆーデリカシーのない発言、なんとかならない?」
 川田は自分の失言を悟り、
「でも、今は景気が悪くて、どこの事業部も業績ふるいませんよね。うちもそうですし」
 と笑顔を作るが、効きめはなかった。
 いくつかの事業が市場から撤退し、あるいは移管となり、祐子の周りでは親しくしていた人が芝通を去った。このまま電話事業の業績が悪化し続けたら、自分も同じようになるのは目に見えている。現部署の光通信事業のほうがこれから伸びていくのは確実だ。次から次へと悪いことばかり頭に浮かび、祐子は振り払うかのように不要になった書類を捨てた。
 一月になり、祐子は電話機設計の仕事に就いた。

              *

 倉岡は目が覚める。電車は、最寄駅の西八王子をとっくに過ぎ、荻窪駅に着いたところだった。一人で会社近くのスナックで飲んだあと電車に乗り、空席を見つけて座ったところまでは覚えているのだが。時計に目をやる。終電があるかどうか微妙な時刻。いっそのこと終電が終っていればいいと、倉岡は願った。家に帰りたくないのは、妻に説教されるのが怖いからだ。
 改札を出た倉岡はバイク店の前で足を止める。深夜だというのに、店主が店の奥で電卓を打っている。倉岡は目を細めた。店主の顔に見覚えがある。バイク専門店『ナガサワ』。
 芝通時代の先輩、永沢の店である。倉岡は、閉店した店のドアを叩いた。

「最近、家に居場所がないんですよ。かといって帰りが遅いとカミサンに叱られる……。帰宅する時間くらい自分で決めたいし、どこで誰と飲んでいようがオレの勝手だろって思いませんか? カミサンに言い訳すんのがイヤで仕方ないんですよ」
 芝通にいた頃の倉岡は、永沢とは仕事も別で、顔を合わせたら挨拶する程度の付き合いだった。こんな話をしてしまうのは、まだ酔いが残っているせいかも知れない。そう思うそばから、一月前、息子が交通事故に遭ったことを話した。
「息子の手術は成功して、障害も残らずにすんだんですけど、今も入院中でして。カミサンは息子のリハビリやらなんやらで大忙し。いつも不機嫌なんですよ」
 疲れ果てた倉岡は、一週間前、全てを捨て南国で漁師になろうかと真剣に考えたが、できなかった。船に弱いのだ。不本意だが、祥子の顔色を窺いながら暮らしていくしかない。
「私もバイク店を出してから、いいことばかりではありませんでした。何をやっても、うまく行かないときがあって……。店が潰れるんじゃないかと、心配で眠れない夜もあったくらいです。朝起きても、店に行くのが億劫で……。そんな生活が一年ばかり続いたある日、バイク好きの友人から電話があって、バイク仲間を紹介してくれたんです。何台かバイクが売れました。次の日も別の友人から同じように……。一週間、それが続いたのです。最後はちょっと気味が悪くなりましたけど。今から思い返しても、不思議な出来事です。今は、その友人達をはじめ、多くの人に支えられて、店をやっています。事態が変わるきっかけは、突然訪れたんですよ」
「そうですか……」
「ところで、多摩工場時代の先輩に桐畑さんという人がいたのを覚えてますか? 本社に行ってから、上司とソリが合わなくて、辛い思いをしたと聞いてます。ところが、ある日突然、その上司が心臓発作で亡くなったのです。それからの桐畑さんは着々と仕事の成果を出して、今では、本社でマネージャーにまでなったそうですよ。近いうちに、事業部長になるんじゃないでしょうか。ようやく芝通にも実力主義が根付いてきたようですね」
 話し込んでいるうち、夜が白み始め、倉岡は始発電車に乗り西八王子へ向かう――自宅に着いたとき、祥子が爆睡していることを願いながら。

              *

 それから五年の月日が流れた。
 倉岡は、いつもの時間に起き、支度をし、会社に着くと、一通のメールが届いた。来期、といっても一週間後、芝通に戻ることが決ったのだ。もう二度と戻れない気になっていた倉岡は、喜びよりも夢でも見ているような不思議な気持ちだった。
 芝通での仕事は、携帯電話機の設計。業績のよい事業のひとつである。今までのマイナスを埋めるように、仕事は順調にまわり始めた。そして業績が認められ参事(中間管理職)になり、その翌年、リーダーシップが認められ、マネージャーに昇進した。
 多摩工場の87年入社の四年制大学卒で、一番最初にマネージャーになったのは、出向し苦渋を舐めた倉岡である。

             *

 祐子のその後はというと――。
 祐子たちの電話機設計部は、家庭で使用する電話のほかに、企業向け(ビジネス用)の電話機を開発している。ダイヤルインサービス機能、電話転送機能、ナンバーディスプレイ機能……。今では多くの人が当たり前のように使っている機能であるが、当時、祐子はこれらの新技術開発に明け暮れたのである。
「気がつくと、業績が上がっていたのよ。もちろん、わたし独りの力じゃないわよ。チームプレーが功を奏したの。でもね。黒字になったときは、本当にうれしかったの」
 祐子が異動したばかりの頃は、まるで真冬の午前五時のようだった。一日のうちで、一番冷え込む時間帯だ。しかし、夜が明ければ気温は上がっていく。風がなければ、昼過ぎの日向は暖かい。赤字続きだった電話事業は、今では毎期、黒字を記録している。
 甘んじることなく、新製品の開発は続く。近年では、通信インフラの「IP化」で社内の通信環境をリニュウアルする企業も増えている。今まで別々だった音声系(電話など)とデータ系(LAN)のネットワークを一本化することで、通信コストを大幅に削減するためだ。
 祐子たちのチームは、そういったニーズに対応し、IP機能搭載のシステム開発にも成功した。
「もし、これから先、『今の私は不幸だわ』って思うようなことがあったら、異動したばかりの電話事業を思い出すの。『今は真冬の午前五時』、お昼頃にはぽかぽか。それをイメージするのよ。そうすれば必ず寒い時期をやり過ごせるわ。きっと」
 祐子の責任は増す一方だが、それと共にやりがいも増している。

 

 

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