5時から作家塾
第2章 なにぶん景気が悪いもので
――バブル崩壊直後編 '90〜'95

4.人妻の憂鬱

「最近、主人の帰りが遅いの。飲みにいってるわけじゃないみたい。……なんかおかしいわ」
 妻が夫に猜疑心と不安感を抱くのは、どのようなときであろうか?
 仕事には関係のない駅の切符がポケットに入っているのを洗濯時に発見する。なぜか毎回、同じ駅、それも三鷹などの住宅街。
 きのうの夜はお風呂に入ってないのに、足が臭くない。
 それから――。無言電話が多くなった。
 そんな時、妻は「まさか……」と思うのである。

                   *

 芝通、交換機設計部、永田の場合。永田は勤続十七年、電気設計課の課長である。不景気の折、部下の残業時間は少ない。残業がつかない管理職の永田は、納期を確保するため毎日十一時まで働き、休日も出勤している。ある晩、帰宅してみると、妻が電気もつけずに泣いていた。妻は夫が浮気しているから帰宅時間が遅い、と思い込んでいたらしい。永田の頭は収益をあげることで一杯なだけのに。
 芝通のエンジニアには帰宅時間の遅い人が多い(残業規制がなければ)。しかし、たいていは、まじめに仕事をしているだけである。なかには、北海道出張で知り合った女性からメールをもらって、にやけてた人もいるが、ごくわずかである。(ススキノで何をしたのやら……。)

 話は変わるが、長野に住むある主婦は、悩みの中にいた。今まで彼女は、平凡な生活を送っていたし、これからも送るはずだった。ところが、ある日――。ちょっとしたことがきっかけで、今まで積み重ねてきたものが崩れてしまう。
 <なぜここで主婦の話が出てくるのだろう?>
 とあなたは疑問に思うかもしれない。そのご質問には、最後に答えるとして、やや唐突ではあるが、今回は長野に住む主婦のお話し。

                    *

 柳本智子は電話の音で目が覚めた。枕もとの時計は2:00AMちょうど。蛍光色の数字が光っている。
「いい加減にしなさいよ。毎晩、毎晩こんな真夜中に電話かけてきて! 主人は、あなたのことなんか好きじゃないって言ってるわ。諦めなさいよ! だいたいねぇ……」
 相手は何も答えない。智子がまくし立てると、しばらくして一方的に電話は切れる。半年前にこの電話が始まった。
<夫の様子がおかしい>
 智子が感じ始めた頃である。毎日十時に帰宅する夫だが、金曜日だけは、十二時を過ぎるようになった。
「土曜日休むため金曜日は残った仕事を片付けなくてはならない」
 夫はそう言い、帰宅するとまずはバスルームに向かう。夫は毎朝シャワーを浴びて出勤し、夜は風呂に入らず寝るのだが、金曜日だけは違う。まるで、自分の身体についた匂いを洗い流そうとしているみたいだ。
 智子たち夫婦はずいぶん前に寝室を別々にし、それ以来セックスレスが続いているのだが、そうなったきっかけは夫の不能ではない。夫は三十五歳。公認会計士の資格をもち開業している。子供はいない。
「主人は、あなたのことなんか好きじゃないって言っている」と電話口で言ったのは嘘である。別室で寝ている夫は、電話のことは知らない。
 愛人の存在に気づいたことを夫にほのめかすのはかまわない。しかし、夫を問い詰めてはいけない。愛人を排除しようなどと考えてもいけない。嫉妬や満たされない独占欲を憎しみに変えることなく、受け入れて流す。それが愛する人と繋がっていくために、智子が出した結論である。
 2:05AM、再び電話が鳴る。きっちり五分ごとに十一回、一時間のあいだ、繰り返し電話が鳴る。
<相手の女はA型なのだろう>
 智子はそう思う。変な音が聞こえるだけで、相手の声はしない。
<私の知り合いかもしれない>
 声を出したら、ばれるから黙っているのだ。なのに、しっかりと毎晩、こうやって自分の存在を知らせてくるなんて! 夫の不倫相手が、妻に自分の存在を知らしめるのは、「お宅のご主人、いただきに参ります」という最終宣戦布告にもとれる。
<夫をとられたら、どうやって生きていこう>
 自宅でピアノ教室を開いているが、一人で食べていくほどの収入はない。今まで一度も会社勤めをしたことがない。コピーすら取ったことがないのだ。資格もないし、三十歳を過ぎているし、この不景気な時期に雇ってくれる会社なんてあるのだろうか。

 智子は、ゴミ袋を抱え玄関の外に出た。軽いめまいがする。毎晩、電話のあとは一睡もできずに朝になる。
 ゴミ置き場でカラスが餌を漁っている。智子は、カラスに髪を鷲掴みにされ、眼をえぐられるような気がして、ゴミ袋を放り出し家に戻る。
 枯れかけた庭の草花が目に入り、水をあげようとホースを手にする。水道蛇口の近くで、智子が目にしたものは――。胴体から切り離された猫の後ろ足が置かれていた。腿の付け根の肉にコバエが群がる。智子の脳裏に夫の愛人のことがよぎった。

 智子はラーメン屋のカウンターに一人で座っている。チャーシューを食べようとして、指でつまみ熱さで我に返る。
「どうかしました?」
 店の奥さんに声をかけられ、割り箸を手にする。隣の席にいる五歳くらいの男の子が智子を指差して、「あのおばちゃん、お手てで食べてたよ」と言い、母親が慌てて、唇に人差し指を当てる。
<あの子は私の子だわ。夫とのあいだにできたけど、一歳のとき、親戚に預けてしまった私の子。取り戻さなきゃ>
 しかし、智子には子供がいない。
 カウンターの端にいる女が、にやけた顔で智子を見ている。
<あの女は夫の愛人に違いない。私のことを監視しているんだわ>
 智子は食べ終えたラーメンのどんぶりをカウンターの上に置き店を出た。すぐあとに、さっきの愛人らしい女も店を出る。智子は尾行を巻こうとして走る。家に帰り、グランドピアノのふたを開け、ショパンの「幻想即興曲」を四時間、弾き続けた。相変わらず毎晩、電話はかかってくる。
 やがて、智子はノイローゼで通院し、薬も服用するようになる。
<なんだか最近、妻の様子がおかしい>
 やっと気がついた夫は、詳しく訊き始める。
「相手が聞かせるって、どんな音?」
「ポーッ、ポーッ、っていう感じの機械音」
 その話を聞いた夫はファクシミリを買い、据え付ける。すると、その晩、一枚の原稿が出てきたのであった。
『ウェディング会場を決めよう! 今月のおすすめ会場はこちら。今ならオーストラリア新婚旅行航空券プレゼントキャンペーン実施中。会員だけの特典……。 大正記念會舘』
 間違い電話ならぬ、間違いファックス。
 激怒した夫は、大正記念會舘に電話をするが、「キューブリックに任せてるんで……」とかわされ、さらに激昂。矛先をキューブリックにむけたのであった。弁護士費用を含めて慰謝料請求額は300万円也!
 ファクシミリシステム始まって以来の大ピンチ!! 訴訟の行方はどうなるのであろうか。

                  *

 次の話に移る前に――。このファクシミリシステムを使うと、どんなことができるのであろうか。これから先は簡単なご説明。
 例えば、ある企業が販売促進のために、商品情報を五百ヶ所に送る場合。一ヶ所ずつ別々に送るなんて、想像しただけで気が遠くなる。そのような場合、オフィスのファクシミリからキューブリックのファクシミリシステムに一度原稿を送信すると、あとはファクシミリシステムが自動的に送りたい相手全てに送信をしてくれる。送り先情報の指定は必要だが、それも簡単なプッシュボタン操作だけで済む。
 商品広告のほか、会員への投資情報の送付、社内文書の配布など、同じものを複数の相手に同時に送るケースに適しているのである。
 こういったサービスは、NTTが他社に先駆けて始め、ある大手企業が使い勝手やサービス内容を充実させて顧客を増やし、キューブリックジャパンをはじめとする他の企業がそれに追随したのである。

                   *

 智子側の弁護士から連絡が入り、急遽キューブリックは原因を調べる。登録したファクシミリ番号は二回確認することになっているので、今まで登録ミスは一度もない。よくよく調べてみると、大正記念會舘からキューブリックに手渡されたリストに載っているファクシミリ番号が、間違っていたことが明らかになった。
 しかし、このようなケースも想定し、このファクシミリシステムでは、リダイヤルは三回にするのが通常だ。なのに、会員には確実に原稿を届けたいということで、大正記念會舘は十回リダイヤルするようキューブリックに依頼した。クライアントの要望には個別に対応するというキューブリックのきめ細かさが裏目に出たのである。
 夜中に送信するのも、理由がある。深夜は、通信料金が安く、話し中が少ないからだ。
 キューブリックは智子夫妻に説明するが、智子の目はうつろ。夫の怒りは収まらない。
「そんなご立派な機械なら、相手がファックスか人間かくらいわかっても良さそうなものなのに!」
「おっしゃるとおりでございます」
 本来、キューブリックのシステムは、電話に出た相手が人だったら(ファクシミリでなかったら)リダイヤルしないようにしている。どのようにして、相手がファクシミリかどうかを判断するかというと、交換機の機能である「極性反転」というものを検出して決めている。
 極性反転というのは――。まずご自宅の電話のモジュラージャックを壁から抜いて見ていただくとわかるのだが、先端に赤や緑の線が見える(黄色など六本ある場合もある)。電話やファクシミリには、交換機からこの線を伝って−48Vの電圧がかかっているのだが、モジュラーコードの真中二本線の一方が+、他方が−になっている。電話がかかってきて、受話器を上げると、+側が−に、−側が+に反転(極性が反転)するのである。まず、ファクシミリシステムは、この極性反転を検出したら相手が電話に出たと判断する。にもかかわらず相手から受信の信号が返ってこなかったら、相手側にファクシミリがつながっていないとみなし、リダイヤルをしないという仕様になっている。しかし智子のケースは、なぜだか極性反転がうまく検出できなかったのだ。
 いくつもの不運が重なり、この事件が起こってしまったのである。

 そもそも、大正記念會舘がキューブリックに手渡した名簿のファクシミリ番号が間違っていたのだから、キューブリックに非はないともいえる。しかし、訴訟となるとお金も時間もかかるし、世間の評判にも影響する。ということで、キューブリックは智子側の弁護士と話し合い、丁重に詫びを入れることで解決したのであった。

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