5時から作家塾
第2章 なにぶん景気が悪いもので
――バブル崩壊直後編 '90〜'95

3.仁義なき電話をうけたなら

 芝通がキューブリックジャパンに納品したファクシミリシステムは、稼動開始から二ヶ月のあいだ大きな問題が出ることもなく、滑り出しは順調である。
 キューブリックでは、お客様から来た質問やクレームは、部内のサービス課が受け答えして開発課にフィードバックしている。ファクシミリシステムが順調に稼動し出したので、みどりはサービス課のほうで技術的な質問に答える仕事を応援することになった。

 サービス課のフロアーは机が向かい合わせで二列、女性ばかり五名が受話器を片手に応対している。みどりが一番うしろの席につくと電話が鳴った。受話器を取るなり、早口な中年女性の声が聞こえる。
 ――もしもし、お宅んとこにファックスしたいんだけど、原稿ってどこに入れるのか、教えてちょうだい!
「あのぉー、機種によりますけど」
 ――竹下電器のファックス使ってるんだけど。
<芝通の人間が竹下のことなんかわかるわけねーっつーの!>
「竹下のことなら、竹下電送に聞いてください」
 ガチャン! と電話を切った途端、課長席から平井が走り寄り、電話の上の空気を手で払いながら言う。
「悪いんだけど、小林さんは電話をとらなくていいから、ねっ。うちのスタッフが答えられないときだけ答えてくれたらいいから、ねっ、ねっ」
 みどりは机についたまま宙を眺める。
「小林さん、外線三番、代わってくださ〜い」
 みどりは受話器を取る。
 ――もしもし、A4一枚六秒で送れるって言われて契約したんだけど、十秒かかってんじゃん、どーゆーこと?
 口調の荒い男性の声。
「えーとですね。六秒伝送のことですね。原因としては――、劣悪な回線状況の場合、14400bps(イッチョンチョン)からのフォールバックか、ECモードのデータの再送か……」
 平井がしかめっ面をしながら、<もうちょっとわかりやすく説明してくれないかなぁ>と首を横に振ってみせる。が、みどりは気づかない。
「えーとですね。CCITT勧告Vシリーズに……」
 みどりがそこまで話すと、相手の男性は「もういいよっ!」と電話を切った。その電話を最後に、その日は誰もみどりのところに電話を回さなかった。

 二週間が過ぎた。
<なにかすることないのかなぁ〜>
 と見回したその時、
「小林さ〜ん、四番、代わってくださ〜い」
 佐々木カスミがみどりに電話を回す。
 ――てめー、この野郎、殺されてーのか?
<せっかく回ってきた電話なのに、間違い電話じゃん>
「こちらは、キューブリックジャパンでございます」
 ガチャン!
「間違い電話だったんで切りました」
 カスミは「マジ?」と呟き、やれやれと首を左右に振る。再び電話が鳴り、みどりは受話器を取る。
 ――さっきはよくも切りやがったな!
 爆風のような声に、よろけるみどり。「あのぉー」と返すのがやっと。
 ――ふざけてんじゃねーょ! てめンとこは、真夜中に変な広告を送り付けやがって。どーゆーつもりなんだよ! ったく!
 クレームの主は浦我興業。大きな声では言えないようなことを生業としている○○系の組事務所。
 きのうの真夜中、受信した原稿の二枚めが途中で詰まったため、そのあとに届くはずの原稿が届かず大迷惑を被ってしまった、というのがクレームの内容である。組員は、その迷惑原稿の送り主である不動産会社に電話をかけると、
「ファ、ファクシミリのことは、キューブリックジャパンに任してますんで、どーかそちらのほうに仰っていただけませんでしょうか……」
とかわされ、さらに憤怒、激昂、怒り心頭、というわけである。

 ――ちょっと、ウチの事務所まで顔出しな。証拠の紙と事務所の場所はファックスしといたから。いいなッ!
 心配そうに課長の平井が、みどりの受話器に耳を寄せる。
「では、上司と相談して……」
 平井は「上司」という言葉を聞くと、びくりと身体を震わせ、顔の前でダメダメと手を振る。
 ――寝ごと言ってんじゃねーよ。今すぐ責任者連れて謝りに来いっつってんだろーが! あぁ?
 みどりは、どうしようかとまわりに目をやると、電話は一方的に切れた。
「何が起きたの?」
 平井の声はうわずっている。
「わかりませんが、ちょっとファクシミリが届いてるみたいなんで見てきます」
 クライアントの一社である福富不動産は、一週間に一回投資用マンションやリゾート物件などの情報を会員に送るため、キューブリックのファクシミリシステムを利用している。今回クレームをつけた浦我興業は会員ではない。なのになぜ会員でもない相手に原稿が届いてしまったのだろうか。

 みどりは、キューブリックの送信記録をチェックする。11月29日、2:01AM。ファクシミリシステムは会員である出川産業という会社に送信したという記録が残っている。念のため出川産業に連絡してみる。
「会員になったのに、ファックスが届かないのでおかしいと思ってたんですよ」
 やはり、キューブリックが送ったはずの原稿は届いてない。
 ファクシミリシステムには、会員である出川産業へ送信したことになっているのだが、なぜだか浦我興業に原稿が届いてしまったようである。
 考えられる原因は、ファクシミリシステムが違った番号をダイヤルしたのか、交換機が違った相手につないでしまったのか、そのどちらかである。

 その頃、サービス課は電話の応対に追われていた。相手は浦我興業。もう続けざま、十分おきに替わるがわる電話をかけてよこしては、「事務所まで来い。来なけりゃ、来るまで電話をかけてやる!」と叫んでいる。みどりはサービス課の席に戻ると、平井が気味の悪い笑みをつくり近寄ってくる。
「小林さんに頼みがある」
 平井はみどりの耳元に顔を近づけ囁く。
「絶対、イヤです。イヤ、イヤ、イヤ〜〜〜! ヤクザの事務所に行くなんてイヤ!」
「だから、小林さんは、事務所の外で待ってればいいから。一時間してもウチの者が戻ってこなかったら、会社に連絡するだけだから」
「連絡するだけったって、もし万が一、私が、こわーいおじさんたちに連れてかれてですよ、売り飛ばされちゃったらどーすんですか!」
 みどりは風俗店で働く自分を想像してしまう。
「やっぱり、無理です! 好きでもない人の×ン×ンを触ったりナメナメしたりするなんて、私にはできません!」
「小林さん、その辺については、大丈夫だ。保証するよ。売り物にはね、商品価値というものがあるんだ。ウン、君は大丈夫だ。安心して行きなさい」
「そう言われると、大丈夫じゃないほうがいいような悪いような……」
「ところで原因はなんだったんだ?」
 みどりは平井の質問を受けて、説明を始める。
「交換機との相性ですね。うちのシステムから出川産業に送るとき、正しくダイヤルしているはずなんですけど、交換機が最初の0を受け取ってくれなかったんです」
「なぜそんなことが?!」
 平井は驚く。
「ファクシミリシステムが0をダイヤルし始めるのが早すぎるから交換機が0を受けそこなうのだと思います。相手の聞く態勢が整ってないのに、矢継ぎ早に話をしても通じないのと同じようなものです」
「ほう」
「福富不動産の03-4567-8901の0が欠けて、3456-7890――浦我興業の番号――へダイヤルしたことになってしまったんですよ。最後の1は無視されますからね」
「そういうことか。03がつかなければ23区内へのダイヤルになるもんな。どうせなら、0と3両方とも欠けてくれたらよかったのになぁ。で、これからどーするつもり?」
 平井が訊く。
「対策なんですけど。その壱。都内への送信は、03を省略してダイヤルするように変更するという手があります。出川産業なら4567-8901って、ダイヤルさせるんですけど、たぶんこの方法だと、今度は、4が欠けて567-8901ってダイヤルするから、結局正しく送信できないケースは残ります。そこで……その弐。最初の番号、出川産業なら4のMF信号(ピッポッパッ音のこと)を規格ギリギリに長くするという手もあります。でも、そうすると今度は、交換機側で4を二回検出するようなイヤな予感がして……。私はいい手だとは思えません」
「けっきょく、どうするの?」
「芝通のほうと相談したんですけど、オフフックすると交換機からツーという音が返ってくるじゃないですか。それを検出してから0をダイヤルし始めるまでの時間を0.5秒遅らせれば、うまくいくのではないかと。もちろん、テストはしますけど」
「相手の態勢が整うまで、一呼吸置いてから、ダイヤルするわけだな?」
「そういうことです」

 ということで、元柔道部と元ラグビー部の人間が駆り出され、ファクシミリシステム部長とみどりの四人は浦我興業に向かったのであった。
 みどりは車の中でひとり、時計を凝視する。秒針がひとまわりするのがこれほど遅いとは――。三十分してもまだ出てこない。みどりは、血まみれになったキューブリックの人たちを想像して首を横に振る。
 四十分してもまだ出てこない。もしも、事務所の怖いお兄さんたちだけが出て来たら、自分はどうするだろう? きっとキューブリックの人たちを置いて、車を発進させてしまうに違いない。自分だけは助かりたいのだ。みどりはそんな自分をイヤな奴だと思う。
 五十分が過ぎた。あと十分しても出てこなかったら、キューブリックに電話を入れよう。みどりは、自動車電話に目をやった。
 その時。事務所のビルからキューブリックの三人が出て来るのが目に入った。笑顔を浮かべ、喋りながら戻ってくる。
 助かったぁ! みどりは、車のドアを開けてキューブリックの三人に手を振った。

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