5時から作家塾
第2章 なにぶん景気が悪いもので
――バブル崩壊直後編 '90〜'95

2.東京タワーが見える場所で

 芝通では、他部署の開発・設計を手伝うことを「応援」と呼ぶ。綺麗なお姉様が横に座って、高いお酒を飲むようなお店でいえば、「ヘルプ」のようなもので……。
 とかくエンジニアは応援を避けたがる。なぜなら、応援でやった仕事は、自分の実績にならないうえ、行った先で専門外のこともしなければならないからだ。なんでも経験したことは無駄にはならないというが、応援は損にも得にもならない。そんなこともあって、自ら他の部署の応援をしたがる者はいない。

                   *

 とある日。みどりの所属する課に、ファクシミリシステム設計課から応援要請が来た。
「なんで、私が……!」
 そう、みどりに白羽の矢が立ったのである。
「ほかにいないんだよ」
 課長の和田は、すました顔で言う。
「なんか、いつも私って、イヤな役回りばっかり引き受けてる気がするんですけど」
「勤務地は都心だよ。小林さんは、東京タワーが見えるところで働きたいって、言ってたでしょ」
「そんなこと言ってませんよ!」
「まぁまぁ、そう怒らないで……いいだろ?」
 ということで、みどりはファクシミリシステム設計課の応援をすることになった。
 システム設計課というと、名称はみどりが所属しているソフトウェア設計課に似ているし、フロアーも近いのだが、扱っている製品は量産品とは異なる。例えば、価格。今回のファクシミリシステムは総額六億五千万円也。BMWが五十台以上買えるというお値段。こう考えると、BMWなんて安い、安い(そーか?)。
 エンジニアが客先に出向く点も、量産品とは違う。ファクシミリシステムは、製品がある程度完成したら、客先で最終調整を行うのが一般的である。仮縫いが終わったオーダースーツをお客様に試着していただいて、よろしくないところがあれば、お直しをする、そんな感じのことをするのである。エンジニアは、問題なくファクシミリシステムが動くまで芝通には帰れない。いわば人質である。
 91年9月。みどりは、東京タワー近くにある発注元、株式会社キューブリックジャパンに、ファクシミリシステムと一緒に納入された。

 試運転も順調で、稼動開始まで、あと一週間というところに来ていた。キューブリックは、「社内キャンペーン」を頻繁に開催する会社である。仕事の目標が達成できた社員には、現金でインセンティブがつく。今回は、十月一日に無事、ファクシミリシステムが稼動開始できたら、開発関係者は一人頭、五万円獲得、というものである。(芝通のみどりには出ないのだが。)
 はたして、キューブリックの人たちは、五万円をゲットできるのであろうか?

 月曜日の午前十一時半。普通の人にとっては昼前だが、「仕事はきっちり朝は遅め」のキューブリックのファクシミリシステム開発部にとっては朝イチ。

 人もまばらなフロアーに電話の呼び出し音が鳴り響く。
「僕だよ、僕。久しぶりぃ」
<名前くらい名乗れよ、磯子!>
「磯子さん、久しぶりで〜す。お元気でした?」
「小林さんが、うちにいた頃、手がけていた『Z50』のことなんだけど、もうすぐ量産開始になるんだ」
「そう、うれしいわぁ」
「でさぁ、キューブリックのファクシミリシステムと、通信試験やりたいんだけど」
「もちろんオッケー」
 ファクシミリ試作品の量産開始条件のひとつに、送受信試験のクリアーがある。市場に出回っている主な機種と通信がうまくできることを確認するのである。
 みどりは、モデムのピー、ピロピロ、シャーという音をモニターして聞きながら、「Z50」から送信された画像が、キューブリックのファクシミリシステムに届くのを確認する。ファクシミリのエンジニアはモデムの音を聞けば、通信速度やコマンドのやり取りがうまくいっているかどうかわかるのだ。
 次は、キューブリックのファクシミリシステムが受信した画像を「Z50」へ自動で送信する。
「モデムの音を聞くと安心するのよね」
 と、呟いたその時――。回線が切れて、アラーム音が鳴る。
「うそッ、なんでいかないの?」
 フロアーにいる社員が、みどりに視線を注ぐ。
<五万円はどーなる?>
 みどりは答える余裕もなく、磯子に電話する。
「『Z50』のDIS+NSFコマンドをファクシミリシステムが受けたら、一方的に回線を切っちゃったみたいだけど……」
 通信はうまくいかなかった。男女に喩えれば、A君がBさんに「こんにちは。車持ってます。港区に住んでます」と言っただけで、BさんがA君に平手打ちをしたようなものである。
「音を聞く限り、原因は回線のノイズじゃぁないですよね」
「僕もそう思う。小林さん、『Z50』は他機種と交信試験やったけど、なんの問題もなかったよ。ということは、小林さんのほうに問題があるんじゃないの?」
<ぬぁにぃ? うちのファクシミリシステムが悪いだとう!?>
「えーっ、そんなことないですよぉ。うちもいろんな機種と交信試験やりましたけど、なんの問題もなかったですもの。『Z50』のほうに問題があるんですよ、きっと」
 ファクシミリシステムも、「Z50」もほかの機種とは、うまく通信できるのだ。みどりは「Z50」相手に通信試験を繰り返すが、結果は同じだった。
 みどりは、芝通の上司に連絡し、コマンドの中身を一つずつチェックすることにした。加藤はみどりの後ろを通るたび、背後から覗いては去っていく。五万円を当てにして、彼女にアクセサリーをカード払いでプレゼントしてしまったらしい。
 みどりは、通信内容が記録されているプロトコルトレースを出して、「CCITT勧告」と突き合わせる。今週中に解決できるのだろうか? もう、十二時をまわっているが、誰も帰らない。

<これだぁ〜! 原因がわかった!>
「もしもし、磯子さん! やっぱあんたが悪い! 『Z50』ったら、立てなくてもいいビット立てちゃってますよね?」
 ファクシミリの場合、回線がつながると、受信側からピー、ピロピロとモデム信号が出るが、この中には例えば「私はA4記録紙で受信します」などといった情報が含まれているのである。無造作に信号を送っても相手は理解できない。そこで各社とも、「CCITT勧告」で決められたルールからはずれないように信号を送っているのである。
 受信側から出る信号のなかに、将来を見越して今は意味が割り当てられていないビットもあるのだが、普通はそのようなところにはビットを立てずに、ゼロを送信する。しかし、「Z50」はその一つを1にして送信してしまったのである。<どうだぁー!> と腰に手を当て威張るみどり。おーっほっほっほと高笑い。
「でも待ったッ」
 ただでは引き下がらない磯子。
「小林さんの言うとおり、うちは0を送るところに1を立てて送ってしまったな。でも、それをそちらが無視すればいいものを、そうしないで一方的に回線を切っちゃったんだよ。そっちも悪いんだよ」
「ギクッ。ちょっと調べてみるから」
 みどりは芝通の多摩工場に連絡し、調べてみる。すると――。磯子の言うとおりで、ファクシミリシステム側にも問題があったのだ。あんなに責めたのに今さらウチにも問題があったなんて、言い出しづらいものがある。でも、このまま黙ってしらばっくれるわけにもいかない。

「もしもし……。先ほどはでかい態度をとってスイマセンでしたぁ〜」

 平謝りするみどり。
「いいよ。ウチにも問題があったんだから。それより早く修正して、交信できることを確認しようぜ」

 原因もはっきりし、両方で修正をかけて、その日のうちに、問題は解決した。
十月一日にキューブリックの社員は五万円をゲットすることができたのである。

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