5時から作家塾
第2章 なにぶん景気が悪いもので
――バブル崩壊直後編 '90〜'95

12.タッチ・アンド・ゴー

 終身雇用制。今は死語になりつつある言葉である。1980年代、芝通多摩工場では、月に一度くらい、定年退職者のセレモニーが行われていた。花束贈呈に、万歳三唱。定年退職者は拍手のなかを運転手つきの社用車に乗り、自宅まで送られるのである。
 1990年代に入ると、定年前に退職する人の数が増えた。その多くは、独立せずに、他の企業に就職する。
 転職したエンジニアたちは、その後、どのような道を歩んでいるのだろうか? 今回は、芝通を離れた人たちのお話し。

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 芝通ファクシミリ部門は、1990年代に入ると、いままでOEMのみだった普通紙FAX(レーザー記録方式)を自社開発することになった。当時のファクシミリ市場は、まだ感熱記録方式が主流だったが、普通紙FAXが増え始めている頃だった。開発コードネームは「Z55」。戦略機種の一つである。芝通ファクシミリ事業部が市場から撤退するなど、予想する者はいなかった頃のことである。


 芝通に、片野岳史というエンジニアがいた。新宿区にある有名私立大学卒業の1985年入社。ファクシミリ機械設計課で働いている。ある日、片野は上司から呼び出された。
「『Z55』の『プロセスユニット』の開発担当になってもらいたい」
 図面上の線一本が一ミリメートルずれるだけで、画質が左右されるという緻密な設計が要求されるうえ、芝通のファクシミリ部門では前例がない新規開発技術。片野は迷うことなく引き受けた。
「トナーまみれの実験続きで、たまに作業着がきれいだと、妻に『あまり仕事しなかったの?』なんて冷やかされたこともありました」
 やがて、「Z55」は誰が見ても納得いく画質に仕上がり、量産が開始される。

 開発が成功し、一息ついた頃のことだった。片野が妻と共に実家に立ち寄ったある日、一冊の就職情報誌がテーブルの上に置かれていた。鉄道会社であるNRの求人特集。五分前まで、片野は転職なんて、真剣に考えたこともなかった。仕事に不満があるわけでもない。開発も成功したし、上司との関係もうまくいっている。もちろん後に、ファクシミリ事業部が市場から撤退することを知っていたわけでもない。片野には転職しなければいけない理由は何もなかった。
「僕はね、基本的に人間が好きなんですよ」
 新しい環境に置かれた自分が、どれだけの人脈を築けるのか、どこまでやっていけるのか、自分への興味が彼を突き動かしていたのかもしれない。あるいは、これといった決定的な理由があるわけではないのに、住み慣れた環境から出て行こうとするのは、誰にでも備わっている本能なのかもしれない。
 片野は機械系50倍の難関を突破し、鉄道会社NRに合格した。妻は転職に反対するどころか、片野を理解し支えたという。

 片野の送別会には、多くの人が集まった。
「元気でな」
 大久保が声をかける。母校が同じで、飲みに行った回数は数え切れないほどある。そのあいだを割り込むように、同期の南が片野の肩をたたいた。吉祥寺にある大学の修士課程を修了している。南もファクシミリの画像に携わっていること、さらに年上ということもあって、片野は頼りにすることもあった。山田祐子の「残念〜。でも、NR社に移っても、同期会には来てね」の言葉で、片野は送り出された。

 NR社に転職して四年が過ぎた1997年。片野はICカード出改札システムプロジェクトリーダーに抜擢される。カードを自動改札機にタッチするだけで通過でき、乗り越しても改札機で精算できるという、2001年首都圏で導入されたあのカードである。
 片野の芝通エンジニア時代は、「結果」がすべてだった。言い換えれば、納期までにスペックを満足する開発ができるかどうかが最重要なのである。上司も同僚もみな理科系。言葉数が少なくても通じ合ってしまう環境の中で仕事をしていた。
 ところが、1998年には、ICカードプロジェクトに、会計、宣伝広告専門の人間も加わる。言葉の定義からして異なる世界の住民たちだ。だが、片野は理科系とはいえ、「弁は立つ」ほうである。芝通にいた頃は、他部門とのネゴを上司に頼らず自ら行っていたし、大学の先輩・後輩との交流も広くあった。そういった芝通時代に培ったことを生かしながら、自分とは違う異なった人たちを互いに受け入れ、コミュニケーションをはかっていったのだった。
「でも、大変でしたよ。決めなきゃいけないことは山積み。技術的に解決しなきゃいけない問題も太平洋くらい(とてつもなくでかいということ)。そんななかを全速力クロールで泳ぎ続ける毎日でした。いくら泳いでも、見えるのは、水平線ばかり。なかなかゴールは見えませんでしたね」
 とはいえ、頭のいい人間は、先が見えないような仕事でも、なんとか前に進み結果を出してしまうものである。

 2001年、ICカード自動改札機は首都圏で導入され、利用者は当初の予想を上回り増加。プロジェクトは成功し、マスコミの取材も多くあった。片野には講演依頼が相次ぎ、先日も、本郷にある大学で講演をしたばかりである。
「芝通は、僕にとって第二の母校なんです」
 片野が芝通の話をするたびに口にする言葉である。

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 芝通退職組で、活躍している人は、ほかにもいる。
 例えば、岸田典之。彼の転職先は東京都。西新宿が彼の勤務地。理科系出身の岸田は、その知識を生かし、現在は、ネットワークの仕事を任されている。忙しさは、芝通にいたときと変わらずである。
 ある日、都庁の廊下を歩いていると、向かいから見覚えのある顔が近づいてくる。
「近田君、どうしたの? こんな所で……」
 芝通の同期である近田がなぜ都庁にいるのか、岸田は理解できなかった。
「近田は、芝通が納めた構内交換機の点検に参ったのです」
 岸田は、近田が交換機の担当だったことを思い出す。東京都職員となった岸田であるが、妙なところで芝通と接点があるらしい。

 不景気が深刻化していない1990年代前半の転職先は大手企業や公務員が多い。その多くは、芝通での経験を生かし、活躍しているのであった。――こう書くと、「芝通って辞めたほうがいい会社なの?」なんて思う方もいらっしゃるかもしれない。が、それは誤解である。芝通に残りながら、活躍している人もたくさんいる。そのお話しは、第三章でということで、第二章はこれでおしまい。



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