第1章 こんな私たちでありますが |
――バブル編 '85〜'89
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9.猛女の攻撃的本能
人間の本能には、自分の子孫を多く残したいという願望がある。例えば、磯子。彼は本能に従順で、子孫を残すため、繁殖活動は「重複」かつ「反復」である。しかし、子孫を繁栄させる手段には、「重複繁殖活動」でもなければ「反復繁殖活動」でもない、別のやり方もあるという。
むかしむかし、原始時代に話は遡る。狩猟生活を営む人間のなかに、高い知能を持ち優れた道具を作り、狩りに役立てた者がいた。彼は狩りとなると、高い攻撃力を持った道具を使って、獲物をたくさん獲得する。兄弟達の食欲は満たされ体力は増す。彼自身は、頻繁に繁殖活動を行うわけではないが、体力ありあまる彼の血縁者たちが多くの子孫を残すのだ。やがて、他の種族との戦争が起こると、彼は狩りと同様、優れた兵器を作り出す。普段は穏やかであるが、いざとなると高い攻撃性を露に敵を倒すわけである。このようにして、彼は自分の種族を繁栄させるのであった。
ところで――。芝通のエンジニアの中にも、原始時代に生まれたのならば、高い知能を持ち、優れた道具や兵器を作り出したに違いない者が多く見られる。彼らは、持ち前の才能を生かして、良い製品を生み出し、他社との戦いに勝ち抜き栄えるわけである。普段は、穏やかであるが、開発時に難問が生じたならば、高い攻撃性を露にしてたたき潰す。
ところが、人間には誤りがつきもので、時には、仕事以外のことに攻撃性が向かってしまい、恋人や友人を傷つけ失うケースもある。
女性のなかにも、心の奥底に男性的で高い攻撃性を潜ませている人もいる。彼女達がうっかり攻撃的になってしまうのは、どのような時であろうか。今回は、小林みどりと山田祐子の攻撃性についてのお話し。
みどりは寝不足の目をこすりながら、図面に向かっている。納期が迫っているのに仕事が進まないのは、暖かすぎるフロアーのせいでもない。ふと、みどりは昨夜の夢のことを思い出している自分に気づき、頭を横に振るが、磯子の裸体がこびりついて離れない。
「小林さん、ちょっと」
日野に呼ばれ、課長席の前に立つ。
「実は、ファクシミリ部課長会議で決まったことなんだけど。ソフトウェア設計の人を増やすことになったんだよ。それで、機械設計課からも一人、出さなくてはならなくなってね……。小林さんに行ってもらいたいと思って……」
内示はいつも突然である。
<なぜ私なのですか?>
と言いかけたが、日野はそれを遮るように、
「先方の和田課長が、是非小林さんを欲しいといってねぇ……」
と畳みかけてくる。
<嘘だ! パソコンだってろくに使えない私を、「欲しい」と言うはずがない!>
「じゃあ、よろしく」
とだけ言い残して席を立ってしまった。みどりは機械設計課を離れたくない気持ちを胸の奥に押し込み、席に戻るしかなかった。
「あのぉー」
みどりは、機械設計に残る方法を桐畑に相談しようと話しかける。頭のいい桐畑ならいい考えを教えてくれるに違いないと期待したのだ。
「四月からソフトウェア設計課に移ること、課長から聞きました」
桐畑には相談する隙もない。
「小林さんがいなくなるので、二人、人が増えます」
桐畑は、メガネの縁を人差し指で持ち上げる。部下のみどりを出す代わりに、ちゃっかり人の補充を多めにしている。
「桐畑さんと一緒に仕事ができなくなるの、寂しいですね」
桐畑は、寂しいって言われても……、とでも言いたげな顔をする。
「あのぉー」
「まだ何か?」
みどりは、桐畑のことを理解していたつもりだったが、こみあげてくる感情を抑えられない。
「桐畑さん、あなたは微分方程式なら、どんなに難解なものでも解けるくせに、人間の心のことは何もわかってない! 人には感情ってものがあるってこと、少しでもいいから理解してくださいッ。人間は、大切なものを失うと、寂しいとか、悲しいとかそういう気持ちになるんですッ!」
みどりは吐き捨てるように言い、桐畑めがけて設計書を投げつけ席を立った。もし、ここがマンションの部屋だったら、刺していたかもしれない。
その夜、みどりは同期の祐子を誘って、会社近くの居酒屋に行った。
「みどりちゃん何かあったの?」
祐子には、異動のことを言い出せない。機械設計課で不要な存在だったのではないかなどと、勘ぐられたくないのだ。みどりにもプライドがある。
祐子は女子大生言葉を連発して、水割りをおかわりする。今夜も何か起きそうな雰囲気が漂う金曜日。店には芝通社員の姿もあって、「かんぱーい!」という声が響いている。
「山田さんじゃないですか?」
見上げると、祐子と同じ課の佐久間が真っ赤な顔をして立っている。みどりたちの二年後輩で、地元の国立大学を卒業してはじめて東京に出てきた。男尊女卑が当たり前の文化で育ったらしく、ことあるごとに、「山田さんは女性ですから出世しない。だから、おとなしく男性のお手伝いをしていればよろしい」という態度をとる。
おまけに佐久間は祐子の母校を知らなかった。東京の私立女子大では三本指に入るのに。知らないのなら黙っていればいいものを
「大学もピンからキリまでありますからねぇ」
などと祐子の母校が「キリ」の大学だと言わんばかりのイヤミまで口にするのだ。
「私より偏差値の低い大学を卒業した佐久間君に、バカ扱いされるのだけは許せない!」
祐子は佐久間のことが話題に上るたびに腹を立てていた。
二人の気も知らないで佐久間は祐子の隣りに座る。しかも、
「これ、うまそうですね」
と刺身に箸をつける。
「山田さん、知ってます? 今度の開発機種、村上さんがプロジェクトのリーダーをやるそうですよ。入社五年目なのに、すごいですよね。山田さんは次に何をやるんですか?」
自動車に喩えるなら、村上は人気機種のフルモデルチェンジや社運を賭けた新規開発車の設計を任されているが、祐子は生産中止になりそうな売れない機種の設計変更を担当しているようなものだ。結果として村上のほうが仕事の成果も大きいから、会社の評価も高い。祐子は村上と評価に差があることを気に病んでいた。
「山田さんは女性だし……。女性って能力ないですから。村上さんと差がつくのも仕方ないですよね」
佐久間がそう言い終わると、祐子は目をかっと見開き、手にしていたグラスをテーブルに叩きつけた。
「もういっぺん言ってみなッ」
「いいですよ。あれ? なんだ、山田さん怒っているんですか? ハハハハ」
「私が喜んでいると思う! これだからバカで田舎者は大嫌いなのよ」
祐子は佐久間の胸倉を掴む。
「バカで田舎者は大嫌い」
祐子の手に力が入り、佐久間の頭は前後に揺さぶられる。佐久間はビビって顔を引きつらせながら腰を浮かすが、祐子がしっかりとネクタイを握っているから逃げられない。祐子は佐久間を引き寄せ、ながーい説教をたれた。
「僕、ちょっとトイレに行きたくなっちゃった」
「だったら、ここでおし!」
まるで女王様のようにいたぶる。佐久間はやっと開放されると、両手を床について膝をついたまま逃げていった。
「かんぱーい!」
邪魔者がいなくなって改めて乾杯したところで、みどりがキレた。
「私、異動することになったのよ! ソフトウェア設計の人が足りないっていうのが理由なんだけどね!」
「そりゃまた突然ね」
「正直に言って、私、納得いかないの。桐畑さん、私のこと引き留めてくれなかったのよ。いままで仕事を任されて結果も出してきたと思っていたの。なのに、なんで私が異動するの? 女でいずれ辞める人間だからいらないの? 理由がわかんないのよ」
「そっかぁ、みどりちゃんもいろいろあるのねぇ」
「ちょっと感情的になっちゃって……。桐畑さんから、これだから女はいやだ、なんて思われているかもしれない」
「でもさあ、ソフトウェアの仕事って完璧主義者が向いてるって言われてるでしょ。みどりちゃんって、仕事だけは完璧主義だもの。だから選ばれたんじゃない?」
「仕事だけ、っていうのやめてよ」
「まあ、そうは言っても、納得いかないことってあるよね。私だって……。村上君が優秀なのはわかる。でも、私にも村上君みたいに新規のものを担当させてもらえれば、同じくらいの成果を出す自信はあるわ。なのに、女の私にはチャンスが来ないのよね。ゴミみたいな成果の見えない仕事ばっかり……。くやしーぃ」
「そういわれてみると、桐畑さんは私が女だからって他の男性と仕事を区別したことはなかったな。もちろん、私も桐畑さんにやりたいことをアピールしたけど。仕事の成果にプラスになるのなら、女とか若いとか関係なく使ってくれたのよ。桐畑さんに当り散らしちゃったのは、申し訳なかったかな」
「どうせ、あの男は仕事のことで頭一杯なんでしょ。気にしてないんじゃない?」
祐子はまた水割りをおかわりする。今度は二人一緒にグラスを空けて、もう一杯と続く。その夜は閉店まで粘った後、カラオケに行って唄いまくった。
それにしても、パソコンも使えないみどりがソフトウェア設計課でやっていけるのだろうか?
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